
素晴らしい映画に出会えました。藤本タツキ先生原作のアニメ映画『ルックバック』。
エンドロールが流れた後も、しばらく席を立てないほどの余韻。それは単なる「感動」という言葉では片付けられない、創作への祈りと、人生の残酷さ、そして救いが描かれていたからです。
天才の孤独と、認められるという救い
物語の冒頭、小学4年生の藤野は、自分のことを疑いようのない「天才」だと信じていました。
学年新聞に載る4コマ漫画はクラス中で大評判。自信に満ち溢れ、自分の世界は完璧に回っていると思っていた。けれど、そんな彼女の前に、京本という「もう一人の天才」が突如として現れます。
京本の描く絵の圧倒的な画力。それは、努力や自信だけでは埋められない才能の差を突きつけられる瞬間でした。
今まで自分が座っていた「一番」という椅子が奪われ、自分の居場所がなくなってしまうのではないかという恐怖。あのヒリヒリするような焦燥感と嫉妬は、クリエイターに限らず、誰しもが一度は経験する感情ではないでしょうか。
しかし、そんな彼女を再び走らせたのもまた、京本でした。
卒業証書を届けに行った先で、引きこもりの京本から告げられた「藤野先生のファンです!」という言葉。そして「天才です」という心からの称賛。
たったひとり、京本から認められただけで、あれほど辛くて諦めたはずの「描くこと」への情熱が、堰を切ったように溢れ出してしまう。
雨の中、藤野が喜びを爆発させてスキップして帰るあのシーンの描写は、本当に美しく、涙が出るほど眩しかったです。
補完しあう「ふたりの天才」
この作品の素晴らしいところは、単なる「一人の完璧な天才」のサクセスストーリーではない点です。
確かに京本の画力は天才的です。しかし、藤野もまた、京本にはない天才的な発想力と構成力、そして物語を推し進めるエネルギーを持っていました。
「ふたりなら、どこまでもいける」。
違う要素を持った二つの才能が合わさることで、可能性は無限に広がっていく。そんな順風満帆なストーリーが心地よく、青春の輝きそのもののように私の目に映りました。
「描かなきゃよかった」という慟哭
しかし、物語はあまりにも残酷な現実を突きつけます。
二人の道が分かれ、それぞれの場所で輝き始めた矢先に起きた悲劇。京本が、理不尽な通り魔事件に巻き込まれ、命を落としてしまいます。
その報せを聞いた藤野の口から漏れたのは、「描かなきゃよかった」という言葉でした。
「漫画を描くこと」が二人を出会わせたのに、結果としてそれが京本の死を招いてしまったという因果。
藤野のこのセリフには、「創作活動は時に人を不幸にするのではないか?」「自分のエゴが人を傷つけたのではないか?」という、作者自身の血を吐くような葛藤が込められているように感じました。
背中を追いかけてくれる人がいる限り
絶望の淵で、藤野は京本の部屋に入ります。
そこで彼女が見つけたのは、部屋の片隅に積み上げられた膨大な数のスケッチブックと、アンケートハガキでした。
そこには、京本がずっと藤野の背中を追いかけ続けていた確かな痕跡が残されていました。
「描いても意味がない」と嘆く藤野にとって、これ以上の救いがあるでしょうか。
その事実を知ったシーンで、私は涙が止まりませんでした。
藤野は再び、仕事場の机に向かいます。
なぜなら、自分のことを応援し続けてくれる人がいるから。
自分の背中を追いかけてくれる人がいるから。
人は、それだけで頑張れる生き物なのです。
「誰かのために」という想いこそが、人が立ち上がるための最も強い理由になるのだと、この映画は教えてくれました。











